Harmonia
オリジナル小説
葵 3
ちょうど目を覚ました葵のおむつを替え、ミルクを作る。手を洗った先生に抱き方を教えて、抱っこしてもらった。
「赤ちゃんを抱くのって、初めてだ」
先生は、こちらが可笑しくなるくらいガチガチだった。
「いい匂い」
頭に鼻を寄せて、クンクンしている。その姿が、いかにも研究者っていう雰囲気の先生に全然似合っていなくて、面白い。
「ミルク、あげてみます?」
「うん」
あぐらの上に葵をのせて、僕が丁度良い角度に合わせると、葵はいつものようにぐびぐびとミルクを飲み始めた。
「可愛いなあ」
先生は心底いとおしげに目を細めて、葵を見つめていた。
「先生、お腹空いてませんか?」
「実は昼から何も食べてないから、腹ぺこなんだ」
「じゃあ、ミルクが終わったらご飯食べましょう」
「諒くん、」
いきなり名前を呼ばれたから、どきっとした。
「ここは大学じゃないから、普通に話して。ずっと敬語だと、疲れるでしょう」
そう言って、先生はにっこりと笑う。
「僕のことも、名前でいいから」
「……」
それは無理です。「秋彦さん」だなんて、恥ずかしくて絶対に呼べない。
「……敬語はやめるから、先生は先生でいいでしょ? 呼び方いちいち変えるの、面倒だし」
「諒くんの好きに」
「それじゃ、先生のままで。飲み終わったら、背中撫でてゲップさせるの。こんな風に」
と言って葵を抱き寄せると、汗とミルクのあまく濃い香りに包まれる。しばらく背中を撫でていると、「げー」と大きな音がした。
「豪快だな」
「いつもこんな感じ。先生、ちょっと抱っこしてて。疲れたらベッドで寝かせていいから」
僕はキッチンに向かった。鍋に昨日の残りのスープカレーがあるから、ささみのチーズカツとサラダを作ろうと決めた。カツの準備をして、揚げている間に野菜を切って、簡単な夕食の完成だ。
テーブルに皿を並べて、ベビーベッドの方をちらりと見ると、先生がベッドの側で膝建ちになり、葵を優しい目で見つめていた。葵はベッドの上で、大きな目をくりくりさせて、機嫌良さそうに手足をぱたぱたと動かしていた。
「おいしいおいしい」としきりに褒めながら、先生は僕の手料理を食べてくれた。
「若いのに、すごいなあ。こんなものが作れるなんて」
「先生は料理するの?」と訊ねると、「全くできない。高校卒業して一人暮らし始めてから今まで、一度も作ったことがない」と驚きの答えが返ってきた。
「一度も? いままでよく生きてこられたね」
「だって、朝昼晩、全部学食で食べるから。土日は定食屋か弁当」
「そっちの方がすごいよ。自分で作った方が早いし飽きないし、楽だ」
「包丁が怖いんだ」
本当にいるんだ、こういう人。僕は思わずにやけてしまった。
「先生って、彼女いるの?」
どさくさに紛れて聞いてみたら、苦笑いされた。
「いたら、毎日学食で食べてないだろう」
「まあ、そうだね。でもさ、いつもぱりっとしたシャツ着てるから、」
「毎日生協のクリーニングに出してる。家事もあまりできないんだ」
「……」
「大学の中で暮らしてるみたいなものだから」
「そうか、先生は生協がなかったら生きていけないんだ」
僕の台詞に、先生はくすくすと笑う。
「本を読むことしか知らないんだ。他のことに一切興味がないし、おもしろくない人間だって自覚はあるけど、仕方ない」
「僕はそうは思わないけど。何かをとことん突き詰めてやってる人って、最高に格好いいと思う」
先生が、僕をぽかんとした表情で見つめてくる。
「あの、ごめん。生意気なこと言って」
「……いや、違うんだ。そんな風に言われたから、恥ずかしいというか、何というか……」
元々白く透けるような頬が、ほんのりと赤く染まって、胸が高鳴るほどに色っぽかった。
「嬉しい、のかな。君みたいな若い子に、そんな風に言ってもらえるのは」
いちいちこんな風にでときめいていたら、とても僕自身が持ちそうにない。
まだドキドキし続ける胸を押え、僕はまた大きなため息をついた。
その後もお茶を飲みながら話して、片付けまで済ませたら、夜中の十二時を過ぎていた。
先生は明日も朝から仕事だ。いろいろあって疲れただろうし、早く休んでもらわなければと思い、とりあえず僕のベッドで休んでもらうことにした。
先にシャワーを済ませた先生が、Tシャツに濃紺のハーフパンツ姿で現れる。上気した肌に、長くてすらりと伸びた脚。またドキドキした。
「今夜はここで寝て」
「諒くんは?」
「ベビーベッドの横で寝る。夜中もミルク飲ませたりするから。朝食は和と洋どっちがいい?」
「和食でお願いします」
「了解。それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
「……先生、今日はありがとう」
「ん、おやすみ」
シャワーを浴びて居間に戻ると、葵がちょうど目を覚ました。おむつを替え、ミルクを飲ませる。ゆらゆら抱っこしてしばらくすると、すうすうとすこやかな寝息が聞こえてきた。ベッドに横たえて、頬を指先で撫でながら、可愛らしい寝顔を眺める。
正直に言えば、どうしようもないくらい不安だった。でも先生がここに来てくれたことで、その不安がかなり和らいだのは事実だ。人がそばにいてくれることの心強さを、僕はあらためて感じていた。
照明を消して、ソファに寝転んだ。
「おやすみ、葵」
疲れた身体はあっというまに眠りの世界へと引きずり込まれた。
泣き声で目が覚めた。カーテンを少し開けると外はもう明るい。時計を見ると六時前だった。葵がよく眠ってくれたおかげで熟睡できた。
いつものようにおむつを替えて、ミルクを飲ませる。ゲップ。しばらくあやして、ベッドの上で葵が機嫌良く遊んでいる間に朝食を作る。
わかめと豆腐の味噌汁。鮭の切り身を焼いて、納豆と海苔とキュウリの浅漬け。用意はできたが、先生が起きてこない。やはり昨日は疲れたのかもしれない。
僕の部屋のドアをノックするも、返事がない。少し躊躇したが、そっと部屋のドアを開けた。
「先生」
やはりまだ寝ていた。
「先生、朝だよ。ごはんできたよ」
近づいて、先生を見下ろす。横向きで、タオルケットにすっぽりくるまっている。
「先生、」
タオルケットの上から身体をとんとんと叩いたら、先生が、ん、と言って寝返りを打った。
その姿に、僕の身体は一瞬で固まってしまった。視線は離せない。いや、むしろ釘付けだ。静まり返った部屋に、ごくりと喉の鳴る音が響く。
僕のベッドの上には、タオルケットがはだけて、一糸纏わぬ先生の身体が横たわっていた。
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