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Harmonia

オリジナル小説

春風 20 


 空は完全に明るくなり、窓の外からはチュンチュンと鳥のさえずりが聞こえてくる。トイレを済ませ、洗面所で自分の顔を眺めると、睡眠不足のせいか両目が真っ赤に充血していた。こめかみの辺りががズキズキと痛み、それを和らげるように軽く頭を拳で叩きながら、ふたたびベッドの中へと潜り込む。
 こんな状態では到底仕事をこなすことなど無理だろうと判断して、朝七時過ぎたところで高熱が出たから休むと会社に電話した。入社して以来、初めての欠勤だ。どんなに疲れていても、仕事に行きたくなくても、休んだら負けだと気合いだけで働いてきたこの一年とすこしの緊張の糸がぷつりと切れたことで、ようやく気持ちが緩んだのか、その後急激な眠気に襲われ、ベッドに沈み込むように眠りについた。
 
 目が覚めたのは正午をすこし過ぎた頃だった。ズキズキとした頭の痛みは取れていたが、まだ眠気が残っているのか、身体がだるかった。上体を起こしたまましばらくぼんやりとベッドの上で過ごす。
 腹が減ったので冷蔵庫の牛乳でココアを作った。幼い頃、菫が泣いたり落ち込んだりした時は、決まって母がココアを作ってくれた。それから、食パンの耳を揚げてシナモンと砂糖をまぶしたおやつ。あの味が無性に恋しくなり、そう思ったらいてもたってもいられなかった。
 さっと着替えて、近所のスーパーへと向かった。外は天気が良く、風が暖かい。春の匂いがするのどかな空気だった。スーパーで食パンとシナモンシュガー、それから肉や野菜などを適当に買って帰った。
 食パンの耳を切り、油を多めに引いたフライパンを温め、そこへパンの耳を入れる。カリカリに焼けたそれにシナモンシュガーをたっぷりと振りかければ完成だ。
 小鍋に残ったココアに牛乳を加えて温め直し、熱々のおやつと一緒に食べる。こんな時におふくろの味が恋しくなるなんて、いったいどんだけマザコンだよ、と自分で突っ込みを入れながら、それでもシナモンの甘くしあわせな香りに心が次第に落ち着いてくるのが分かった。
「今年こそは長崎に帰ろっかな……」
 日々の忙しさにかまけて、就職してから実家には一度も帰省していない。
 多季と話したことを思い出す。長崎に行きたいと言った多季。一緒に旅行できることを、昨日はあれほど楽しみにしていたのに。
「……あー」
 ふたたび多季のことを思い出して、菫は頭を抱える。すこし眠って心が落ち着いたせいか、昨夜のような激しい動悸はない。しかしそれとは別に、菫は心に引っかかるものを感じていた。

 昨夜の別れ際のことだ。菫が「多季の踊りが大好きだ」と告げた時の、多季の表情。ほんの一瞬だったが、多季はとても険しい表情を浮かべた。必死で痛みを堪えるような、ひどく苦しげな多季の表情が、菫の脳裏からなぜかずっと離れなかった。

 部屋の掃除や洗濯を済ませてから、ノートパソコンを開く。床にマットを広げ、入れっぱなしのDVDを再生した。
 目を閉じて、多季の声に耳を澄ます。低く、優しく穏やかなその声に、ほんのすこしだけ心臓が高鳴ったが、深く呼吸を繰り返すうちに、次第に落ち着きを取り戻した。
 DVDの内容は完全に覚えてしまっていたから、画面を見ずに声だけに従ってヨガに集中する。緊張と極度の疲労せいか、身体がごりごりと音がするくらい強ばっていた。その強ばりをゆっくりと解しながら、心地良く身体を伸ばしたり縮めることを続けた。昨夜のことは一切考えず、ただ、いまこの瞬間に集中する。
 ヨガを終える頃には頭が深くリラックスして、心地良い疲れと眠気に満たされた。ベッドに横たわり、しばらくその感覚を味わった後、結局自分は多季もヨガも好きなのだ、というシンプルな結論にたどり着く。

 昨夜は興奮していて、ただ多季から逃げることだけしか考えられなかった。しかし多季への恋心を自覚したいま、自分がやるべきことは、もっと別のことなのではないか、と思う。
 好きだという気持ちを一方的に相手に押しつけたり、恋する自分を憐れんだり、あるいはその気持ちから逃げ出すことは、とても簡単なことだ。しかし、そういう狡くて身勝手な方向に、自分の気持ちを持っていきたくはなかった。ひとりの人間として、そんな生き方を選択したくはなかった。

 別れ際の多季のあの表情が、どんな意味を持つのか。菫には分からない。それを無理に聞き出そうとも思わない。ただ、多季への恋心を自覚したいまだからこそ、多季が抱える悲しみや苦しみに寄り添いたいと願う自分の心に気づく。
 そう思い直して、菫はひとつの覚悟を決めた。多季からも、自分の心からも逃げないという覚悟だ。


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Posted on 2017/04/09 Sun. 00:00 [edit]

category: 春風

thread: BL小説  -  janre: 小説・文学

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